魅力あふれる史跡、文化財の残るここ大湫宿を巡り、
過去に思いをはせてみませんか?
慶長5年(1600年)に大湫村開基である保々(市郎左衛門)宗昌が、従来あった「小庵を改めて一寺を建立(保々氏由緒書による)」した。この時、宗昌寺へ開山として迎えられたのが、妙心寺派 聖沢門派の加茂大仙寺の秀僧智仙宗恵和尚。こうしたことから、禅宗の臨済宗、妙心寺派、聖沢門派の金城山宗昌寺となる。
宗昌寺が管理する観音堂は正式名「秀峰山圓通閣」と称し、大湫宿を利用する旅人や商人達の道中安全祈願の為に創建された。現在の観音堂は弘化4年(1847年)に再建された建物で、特に天井が格天井で60の升目には三尾静(暁峰)による鮮やかな花鳥風月の絵画が描かれた貴重なものとして瑞浪市指定文化財に指定されている。
秀峰山圓通閣・観音堂・札所本尊:聖観世音菩薩
宗派:臨済宗妙心寺派
本尊:釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩
住所 | 瑞浪市大湫町529 |
電話番号 | 0572-63-3166 |
大湫宿史の中で一番の大事件に挙げられるのが、文久元年(1861年)10月の『皇女和宮御降嫁』である。
相次ぐ外国船の来朝による鎖国か開港かの国難を乗り切るために考えられた『公武合体論』によって、「国のためになるのなら…」と、仁孝天皇第8皇女であった和宮は、14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁されることになった。和宮、この時16歳・・・・(家茂 16歳)
10月20日に京を発ち、9日目の同月28日に大湫宿に1泊、江戸へ向かった。
御降嫁の行列は、朝廷から差副えの宰相典侍局(さいしょうてんじのつぼね)や生母観行院(かんぎょういん)などのお局・女官、中山・橋本・菊亭・坊城・千種・北小路・岩倉などの供奉公卿、それに若年寄加納遠江守以下の幕府のお迎役ほかの供奉諸家らで総勢約5,000人。その行列の継立のために大湫宿に招集された人馬は、何と2万8千人と馬820頭。 行列は、前後4日間に分けて連日行われ、合計3万3千人余の人々が、宿泊・食事・行列をしたと文献に残されている。
さて、その和宮は文久元年10月28日、大湫宿の本陣(旧大湫小学校校庭)に宿泊し、翌日、大井宿(恵那市)を経て、中津川宿に1泊し、さらに三留野・上松・薮原・本山・和田宿泊りといった道中で、11月15日無事江戸到着。25日間、その間の継立は、人足約70万人・馬1万5千疋という大継立てが終わったもので、古今・東西未曾有の大嫁入りの行列であった。
和宮は道中、京を偲びながら、その胸中を上のような歌で詠んでいる。
現在、本陣は無く、旧大湫小学校の校庭にあった。
本陣は、保々市郎兵衛(中西家)が世襲し、領主 千村方の庄屋・問屋を兼任していた。
本陣の造りは間口22間(約40m)、奥行き15間(約27m)、部屋数23、畳数212畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎。また数々の宮姫のほか皇女和宮が14代将軍徳川家茂へ御降嫁のため文久元年(1861年)10月28日に宿泊されている。
和宮様が御泊りになった部屋全部は、土岐市の鈴木さん方へ移築されている。
住所 | 瑞浪市大湫町416-1 |
当初は2つの本陣であったが、享保10年(1727)に脇本陣となった。当主は、保々長左衛門(南家)が世襲し、領主山村方の庄屋・問屋を兼任していた。
屋敷も本陣に次ぐ格式を持ち、高級武士や公家など身分が高い人物が利用した為、式台付の玄関や、上段の間、下段の間、門構えなどが備えられていた。現在の建物は江戸時代中期に建てられたもので木造平屋建、切妻、桟瓦葺、平入、外壁は塗屋造、白漆喰仕上げ、正面上部の窓は虫子窓や桔梗紋の漆喰飾など意匠に富んだ造りとなっている。建坪は開口16間余、奥行き6~12間の98坪。
部屋数19、畳数121畳。別棟4。門構え・玄関付きで一部改修・縮小されているが、概ね往時のままの姿をとどめている。
住所 | 瑞浪市大湫町 |
学校の歩み
現在、グラウンドは盆踊りなど地域交流の場所として活用され、校舎は平成30年3月に解体された。
住所 | 瑞浪市大湫町416-1 |
中山道は、宿駅伝馬制度による荷物・人馬の輸送のために整備されている。
その宿継ぎに関する荷物の輸送人足や伝馬の調達・大名宿泊時の宿舎割り等を扱う所が問屋場であり、問屋役、年寄、書記、人馬氏の宿役人が詰めていた。
住所 | 瑞浪市大湫町 |
宿発足直後(1612年)に保々宗利氏により創建された。享保・延享以降20余枚の再建札が保存され、約400年の崇敬を知ることができる。
中世から、修験道の霊地として広く知られていたが、今はひっそりとした佇まいである。
昭和61年秋には、神明神社に続いて、狛犬・燈籠・石段等が整備されている。
鳥居は島木の有無で明神鳥居系と神明鳥居系と分かれる。明神鳥居は、中世以降に現れてもっとも普及している。神明鳥居より複雑で、台石を持ち、笠木に反増(両端の反り)があるのが特徴。
白山神社の境内にあるイチョウは、葉に実(ギンナン)が付いている。葉に実が付く「お葉付イチョウ」は、全国的にも珍しい。採集された葉付イチョウは大湫公民館に展示されている。
イチョウは街路樹にもよく使われる馴染みのある植物で、雌雄異株。古い時代の形質をそのまま残す裸子植物で、いわば生きた化石でもある。東京帝大(現東京大学)のイチョウの木から、平瀬五郎氏により精子が発見され、1896年に学会誌に報告された。
この白山神社のイチョウは、1802年に奉納された奉納樹(『中山道大湫宿史 ふるさと大湫百話』)で、樹齢200年を超える。
住所 | 瑞浪市大湫町白山 |
1608年に、保々安昌氏により再建された由緒ある古社です。
中世から伊勢神宮の信者を獲得し、講を組織させる御師(祈りの師)が活躍しました。
御神木の根元からは清水が湧き出ていて「神明の清水」や「神明元泉」などと呼ばれ宿場の住民や旅人達の貴重な水源として親しまれてきたもので現在でも大切にされています。
「鳥が居やすい」、「通り入る」とか言われる。
天照大神が天岩戸に隠れた時、大神のお出ましを願い、長鳴鳥(鶏)を横木に止まらせて泣かせたともいわれる。鳥居には注連縄が張られ、この先から神域(境内)となる。鳥居から社殿まで行く道が参道であり、参拝者は、真ん中(神が通る所)をあけて、左側を通るという信仰がある。
住所 | 瑞浪市大湫町398番地 |
道中安全・病気全快の観音様で、もとは神明神社の境内にありましたが、享保6年(1721)に今の場所に移されました。 2度に渡る宿の大火に類焼し、現在のお堂は弘化4年(1847)に建てられたものです。
江戸時代、弘化4年(1847)。この絵天井は、虎の絵で著名な岸駒に師事した現中津川市付知町の画人三尾静(暁峰)の描いたものです。花鳥草木を主に60枚描かれており、出来も色彩もよく100年の歳月を感じさせない逸品です。
市指定有形文化財:江戸時代の絵天井(60枚)
過ぎたるものその1 「開宿以来の盛大な落慶法要」
過ぎたるものその2 「立派な建物」
住所 | 瑞浪市大湫町192-1 |
住所 | 宗昌寺 0572-63-3166 |
宿の西端に設けられていましたが、平成10年に歴史の道整備事業の一環として往時の姿が再現されました。尚、現存する定高札は公民館で見ることができます。
高札場とは
幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
目的
5種類の高札
①親子兄弟札 ②毒薬札 ③駄賃札 ④切支丹札 ⑤火付け札
住所 | 瑞浪市大湫町 |
細久手より壱里余りにあり 道至って険しく岩石多く 登り下り十町 許りなり
坂の上より丑東の方に木曾の御岳見ゆる 北には加賀の白山 飛騨の山の間より見ゆる
白山は大山なるが故に麓まで雪あり 日本三番の高山なり 西に伊吹山見ゆる 母衣岩は琵琶峠の下にあり
烏帽子岩は右の傍にあり 何れも其の形をもって名とせり
琵琶峠は細久手に至る大道の坂をいう 岩石多く道険しく 登り下り十町 計りもあり
坂の上より巳寅の方に木曾の御岳見え 北には加賀の白山 飛騨山の間より見ゆ 白山は大山なる故
麓まで雪あり 西に伊吹山も見えて好景なり 母衣岩は琵琶坂の下の路傍にあり たて横二丈計の大石なり
烏帽子岩は母衣岩の西に並べり 大きさ母衣岩ほどあり 遠近の人よく知れり
・・・大久手という所より琵琶峠というを越ゆ 今日の道すべて山の尾の上なり 峠より彼方・此方を見渡すに
越の白山峯越しに 山の腰わずかに見ゆ 見るがうちに 雲へだたりぬ み越路(北陸街道)の白峰(加賀白山)何処と白雲を振りさけ見れば雲に消えつつ 伊吹山の遥かなれどさだかに見ゆ