大湫(おおくて)宿は、「大久手宿」とも書かれ、中山道47番目の宿である。
慶長9年(1604年)、中山道の新宿として大久手宿が設置された。標高510m、宿高109石8斗2升。尾州藩領で同藩木曽衆の千村・山村両宗家の折半知行地であった。
江戸へ90里半(約355㎞)、京へ43里半(約171㎞、東の大井宿へ3里半(約14㎞)、西の細久手宿へ1里半(約6km)。
また助郷村は、旧土岐郡下の寺河戸・小田・山田・土岐・猿子・小里・萩原・須之宮・羽広・釜戸・半原(以上瑞浪市)・駄知(土岐市)と旧恵那郡下の藤・久須見・竹折・野井・佐々良木・椋実(以上恵那市)の18ヶ村、1万97石の村々であった。
大湫宿内は、東の寺坂下から西の高札場まで宿長3町6間(約340m)、戸数は70~80戸で、うち旅籠屋は35軒内外であった。 宿内往還は平均巾2間半(約5m)。宿内50軒の家々は、概ね間口6間半(約12m)に地割りされ、定人馬役としての宿役のほか旅籠屋を兼ねて往還の左右に造られていた。
宿内は東方から北・白山・中・神明・西町に5区分され、桝形(鍵の手)は北町に弓形(曲り)は、神明町に造られ、家々は屋号で呼ばれていた。また、宿内には東方から天王様・神明様・西ノ下・山之神・清水と呼ばれる清水井戸(池)も設けられ、宿民・旅籠屋の生活用水・旅人・人馬の飲用・防火用水池になっていた。
中山道は、江戸から京都まで69宿(東海道の草津・大津両宿を含む)あり、全長約135里、東山道・木曽街道などとも呼ばれ、江戸と京都を結ぶ大切な超一級国道であった。
関ヶ原の戦い後、江戸幕府によって、それまでの御嵩~柄石峠~日吉本郷~半原~釜戸経由で大井宿へ通じていた中世以来の旧中山道のコースが改められ新しく御嵩~大井間を最短距離で結ぶ新中山道が日吉丘陵上に開かれた。(正徳6年・1716年から中仙道の仙の字が山に改められている)
また、江戸時代(近世)の日本五街道(中山・東海・奥州・甲州・日光街道)の一つで、道巾平均2間~2間半(4~5m)、本陣・脇本陣・問屋場などの宿施設も整えられていて、幕府役人らの通行や公用荷物の輸送の便が図られた。
やがて、参勤交代制による大名らの通行量増による助郷制度の実施や、一般庶民の旅の増加などから旅籠屋も営まれるようになっていった。
こうして中山道は、公用継・大名継などのための道としてだけでなく、次第に庶民の道としても賑わいを見せ、日本の大動脈として江戸時代を支えてきた。
2008年2月大湫宿新春特別歴史学習会テキスト集より 講師:渡辺 俊典氏(郷土史家)